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東京地方裁判所 昭和48年(特わ)347号 判決

(被告人)

国籍

韓国 釜山市東莱区老圃洞七六九番地

住居

東京都練馬区東大泉町五〇八番地

職業

会社役員

岩本こと

李聖三

一九二三年八月二五日生

(公判出席検察官)

五十嵐紀男

主文

被告人を懲役一〇月及び罰金二、五〇〇万円に処する。

右罰金を完納することができないときは、金五万円を一日に換算した期間、被告人を労役場に留置する。

この裁判確定の日から二年間、右懲役刑の執行を猶予する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

(罰となるべき事実)

被告人は、東京都練馬区東大泉町五〇八番地に居住し、同所でパチンコ店大泉会館、喫茶店カトレヤを経営するほか、同区内においてパチンコ店三店、喫茶店三店、飲食店二店、タバコ小売店一店を経営していたのであるが、自己の所得税を免れようと企て、売上の一部を除外して簿外預金を設定する等して所得を秘匿したうえ

第一  昭和四四年分の実際総所得金額が五三、七四六、七四二円(別紙(一)修正貸借対照表参照)あったのにかかわらず、昭和四五年三月一六日東京都練馬区栄町二三番地所在の所轄練馬税務署において、同税務署長に対し、総所得金額が五、一九八、一一〇円でこれに対する所得税額が一、一八〇、九〇〇円である旨の虚偽の所得税確定申告書を提出し、もって不正の方法により、同年分の正規の所得税額三〇、三六九、〇〇〇円(別紙(三)税額計算書参照)と右申告税額の差額二九、一八八、一〇〇円を免れ

第二  昭和四五年分の実際総所得金額が八四、六三五、八三三円(別紙(二)修正貸借対照表参照)あったのにかかわらず、昭和四六年三月一五日前記練馬税務署において、同税務署長に対し、総所得金額が四、七五三、八七〇円でこれに対する所得税額が八六三、四〇〇円である旨の虚偽の所得税確定申告書を提出し、もって不正の方法により、同年分の正規の所得税額五一、一〇二、六〇〇円(別紙(三)税額計算書参照)と右申告税額との差額五〇、二三九、二〇〇円を免れ

たものである。

(証拠の標目)

全般にわたり

一、被告人の当公判廷における供述

一、被告人の検察官に対する供述調書三通

一、第三回公判調書中の証人李道熙の供述部分

一、押収にかかる所得税青色申告書決算書綴一綴(昭和四八年押第一四四四号符一)

一、同じく昭和四四年分所得税確定申告書一袋(前同押号符二)

一、同じく昭和四五年分所得税確定申告書一袋(前同押号符三)

一、同じく計算メモ合計七綴(前同押号符四の1乃至7)

別紙各修正貸借対照表の勘定科目ごとの増差額について

〈現金〉

一、被告人の検察官に対する昭和四八年三月一日付供述調書六項及び被告人の当公判廷における供述(第一七回)

一、甲(一)〈81〉収税官吏久世貴一作成の昭和四七年五月二二日付銀行調査書

〈預金〉

一、甲(一)〈80〉収税官吏久世貴一作成の昭和四七年五月二二日付「各年末預金残高および受取利息、給付補てん備金」調査書

〈出資金〉

一、甲(一)〈82〉収税官吏久世貴一作成の昭和四七年五月二二日付「出資金および出資に対する配当所得」調査書

〈未達小切手〉

一、甲(一)〈40〉収税官吏浜田理作成の昭和四七年五月二二日付「未達小切手」調査書

〈前渡金〉

一、甲(一)〈83〉収税官吏浜田理作成の昭和四七年五月二二日付「固定資産取得価格および各年末前渡金、未払金」調査書

〈土地45年分〉

一、甲(一)〈17〉末村東吉に対する収税官吏の質問てん末書

〈建物〉

一、甲(一)〈84〉収税官吏浜田理作成の昭和四七年五月二二日付「各年末固定資産帳簿残高および減価償却額」調査書のうち「建物」に関する部分

〈三楽関供土地、同建物、同什器備品、同営業権〉

一、証人安嶋庄吾に対する当裁判所の尋問調書

一、証人李道熙の当公判廷(第一五回公判)における供述

一、証人桜井清の当公判廷における供述

一、証人小林秀嘉の当公判廷における供述

一、鑑定人小林秀嘉作成の昭和五一年一二月鑑定評価書(第二一回公判期日取調)

一、東京都練馬都税事務所長作成の固定資産課税台帳登録証明書三通(第二〇回告判期日取調)

一、甲(一)〈88〉藤田俊夫作成の昭和五一年四月二三日付電話聴取書

一、押収の土地付建物売渡契約書一袋(符一五)のうち昭和四四年五月一日売買契約書一枚

一、押収の金銭出納帳一剤(符五)

〈貸付金・44年分のみ〉

一、証人林征四郎の当公判廷における供述

一、証人林震雨の当公判廷における供述

〈車輌〉

一、甲(一)〈84〉収税官吏浜田理作成の昭和四七年五月二二日付「各年末固定資産帳簿残高および減価償却額」調査書のうち「車輌」に関する部分

〈什器備品〉

一、甲(一)〈84〉収税官吏法田理作成の昭和四七年五月二二日付「各年末固定資産帳簿残高および減価償却額」調査書のうち「什器備品」に関する部分

〈たな卸商品〉

一、符一の所得税青色申告決算書綴のうち昭和四四年分及び昭和四五年分所得税青色申告決算書

一、符一三経費帳一箱に在中の売上明細表のうち在庫の記録分(昭和四四年末の在庫高として)

〈店主勘定〉

一、甲(一)〈45〉収税官吏浜田理作成の昭和四七年五月二二日付「店主勘定」調査書

〈未払金〉

一、甲(一)〈83〉収税官吏浜田理作成の昭和四七年五月二二日付「固定資産取得価額および各年末前渡金、未払金」調査書

一、甲(一)〈13〉片桐光由の検察官に対する供述調書

〈未収金・45年のみ〉

一、甲(一)〈46〉収税官吏浜田理作成の昭和四七年五月二二日付「資産譲渡金額および未収金」調査書

〈銀行借入金〉

一、甲(一)〈86〉収税官吏浜田理作成の昭和四七年五月二二日付「各年末借入金残高および支払利息」調査書

〈個人借入金〉

一、被告人の検察官に対する昭和四八年三月一二日付供述調書四項

一、甲(一)〈18〉加藤孝一に対する収税官吏の質問てん末書

一、甲(一)〈34〉張在昶名義の昭和四七年五月九日付上申書

一、甲(一)〈16〉李震雨に対する収税官吏の質問てん末書

一、甲(一)〈13〉片桐光由の検察官に対する供述調書(同調書中昭和四四年中に増えた一〇〇万円は同年以降の〈未払金〉勘定として掲げられるもの)

〈受取利息〉〈雑所得〉

一、甲(一)〈80〉収税官吏久世貴一作成の昭和四七年五月二二日付「各年末預金残高および受取利息〉調査書

〈配当源泉税〉〈小額配当所得〉〈配当所得〉

一、収税官吏久世貴一作成の昭和四七年五月二二日付「出資金および出資に対する配当所得」調査書

〈譲渡所得・45年のみ〉

一、甲(一)〈84〉収税官吏浜田理作成の昭和四七年五月二二日付「各年末固定資産帳簿残高および減価償却額」調査書中の「車輌」に関する部分

一、甲(一)〈25〉武田信雄名義の昭和四七年三月二七日付上申書

一、甲(一)〈27〉佐々木清次名義の昭和四七年四月一一日付上申書

(争点に対する判断)

本件において争いがある点は、(1)現金在高に関するもの、(2)パチンコ遊技場「三楽ホール」の買取、取壊しに伴う資産の評価に関するもの、(3)貸付金に関するものの三点であるから、以下これらの点について順次、当裁判所の見解を示すこととする。

一、現金在高に関して

(一)  検察官は、被告人の昭和四三年一二月三一日、同四四年一二月三一日、同四五年一二月三一日の各時点における被告人の現金在高は、いずれも一三、五〇〇、〇〇〇円であり、その間に変化はないと主張するところ、弁護人はこれら各時点における現金在高としては次のとおり

〈省略〉

と認められるべきであって、昭和四五年中においては、その期首と期末では二五、〇〇〇、〇〇〇円の現金在高の減少があると主張するのである。

弁護人の右主張の根拠は、三菱銀行保谷支店において昭和四五年一二月一六日被告人李聖三名義で設定された通知預金六、〇〇〇、〇〇〇円(証書番号八九〇〇四三八)と、同支店において同日被告人の妻李舜連の名義で設定された通知預金六、〇〇〇、〇〇〇円(証書番号八九〇〇四二〇)及び富士銀行大泉支店において同日被告人李聖三の名義で設定された通知預金一三、〇〇〇、〇〇〇円(証書番号九四-一二六)の三口の預金合計二五、〇〇〇、〇〇〇円は、いずれも昭和四五年一二月三一日現在における被告人の預金として認定されているものであるが、右の各通知預金の発生原因はそれらの預金自体からは明らかでないけれども、これら預金が被告人の営業による売上金を預金したものでなく、既にあった預金の預け替えでもなく、さらには、貸付金の返済分でもないことは明らかであるところ、このことは右金員を被告人が本件係争年度以前から現金として所持して、右通知預金設定の日にはじめて預金化したものといわざるをえないから、右二五、〇〇〇、〇〇〇円に相当する金額が少なくとも昭和四三年一二月末日、及び昭和四四年一二月末日において検察官主張の現金在高一三、五〇〇、〇〇〇円の外に存在したものとして認定されるべきであるというにある。

(二)  そこで、右弁護人の主張について判断するに、収税官吏久世貴一作成の昭和四七年五月二二日付銀行調査書(甲(一)〈81〉)中の三菱銀行保谷支店の通知預金分(同調査書三六三頁)及び富士銀行大泉支店の通知預金分(同調査書三七〇頁)の記載によって弁護人主張の如き三口の通知預金の設定がなされていることが認められるうえ、右久世貴一作成の「各年末預金残高および受取利息調査書」によると、これら預金が昭和四五年一二月末日の預金残高として計上されていることも明らかである。そして右三口の通知預金設定自体からはその発生経路は明らかではないところ、検察官の第二三回公判期日における釈明によると、検察官においても前記三口の通知預金の発生原因として、それが売上金の預入であるとか、預金の預け替えであるとか、或いは又貸付金の返済分を預入したものであるといった具合にその発生原因を明らかにすることが出来ない預金であるという。そうすると前記三口の通知預金として設定された合計金二五、〇〇〇、〇〇〇円については、被告人が本件係争年度以前から現金として所持していたものを突如として昭和四五年一二月一六日に至って通知預金として預入したものであったと推論することも出来うるところ、被告人はその各年末における現金在高に関し、収税官吏に対する昭和四七年一月二八日付質問てん末書では「現金はそんなに多くはなかったが不時の出費に備えて一五〇万円かせいぜい二〇〇万円位である」旨を述べ、検察官に対する昭和四八年三月一日付供述調書では「昭和四三年一二月末、四四年一二月末、四五年一二月末のそれぞれの現金在高はいずれも同じ位で一、三五〇万円位である」旨を述べ、当公判廷における供述では質問の度に相当の変化はあるけれども「昭和四二年一二月末で七、〇〇〇万円あり、同四三年末で五、〇〇〇万円、四五年末には一、七〇〇万円である」旨を述べているのであってその供述内容は変転しており、それら供述自体からは何れの供述が真実であるか直ちには判断しがたいものといわざるをえないけれども、被告人は昭和三〇年代後半から同四二年ごろまでは不動産業も営んでいて、その当時から相当多額の現金を常に所持していたともいうのであって、多額の現金を所持することも全くありえないことではないこと、検察官が本件において被告人の実際の所持金額として主張する額は、昭和四四年分が約六、四〇〇万円余であるのに昭和四五年分は約一億二、一〇〇万円余となっており、両年度間において所得額の増加が前年の倍以上という異常な数値となっておることに関し、この所得の異常の増加理由について十分なる説明がなされえない(被告人の昭和四四年と同四五年の営業の店舗数においてはさしたる変化もないと認められるところ、検察官は右の所得の増加の理由を売上げの伸びによるものとし、昭和四四年の売上に対し昭和四五年の売上は一六パーセント増(第一五回公判期日においては三六パーセント増と釈明していたところ第二一回公判期日において一六パーセント増と訂正)と説明しようとするけれども、売上額の一六パーセント程度の増加が前記の如き多額の所得の倍増したことの説明としては不十分といわざるをえない)ことは、昭和四三年の年末及び昭和四四年の年末時の現金在高につき、検察官において把握洩れがあったのではないかと推論しうる余地があること等を綜合勘案すると、検察官が昭和四三年末から同四五年末までの間の各年末現金在高一、三五〇万円であると主張する以外に、その発生経路の不明である前記三口の通知預金二、五〇〇万円に相当する現金が昭和四三年末及び同四四年末に存在したものと認定するのが相当であり、したがって現金在高については弁護人の主張のとおり認めるものである。

二、パチンコ遊技場「三楽ホール」の買取り、取壊しに伴う資産の評価に関し

(一)  検察官が冒頭陳述書添付の各修正貸借対照表の土地、建物の勘定科目として主張する金額のうち、被告人が安嶋庄吾から買取ったとされるパチンコ店「三楽ホール」に関しての土地、建物の評価分を除いたその余の数額については、検察官と弁護人、被告人の間に争いはないのである。そして、右「三楽ホール」がその土地、建物を含めた一体として昭和四四年五月一三日被告人に買取られたこと、その買取総額が八、一〇〇万円であったこと、被告人は同「三楽ホール」をそのまま引継いで翌四五年七月末まで営業したうえ、その後この建物を取壊して鉄骨建物を建築し、同年一二月二九日からはパチンコ店「武蔵関会館」として営業を再開したこと、の各事実についても争いはない。争いのある点は、右「三楽ホール」買取価額の各資産別の評価に関することであって、検察官は、土地が七、八〇〇万円、建物が三〇〇万円と区別されるものであると主張するのに対し、弁護人は土地が四、二〇〇万円、建物が九〇〇万円、什器備品が五〇〇万円、営業権が二、五〇〇万円であると主張する点であって、これら各資産についての減価償却、除却損をみたうえでの昭和四四年一二月三一日及び同四五年一二月三一日の各時点における各資産の価額として

検察官は

〈省略〉

となると主張するのに対し、

弁護人は

〈省略〉

であると主張するのである。

そこで以下において、右「三楽ホール」の買取りがどのようなものであって資産評価が如何になされるべきものであるかを検討する。

(二)  証人安嶋庄吾に対する当裁判所の尋問調書、証人李道熙の当公判廷における供述、被告人の当公判廷における供述及び押収にかかる金銭出納帳(符五)、同じく売買契約書一通(符一五のうち売主安嶋庄吾、買主李舜連とするもの)によると、

(イ) 右安嶋と被告人は昭和四四年五月一日、安嶋が練馬区関町四丁目五六四番地上において「三楽ホール」の屋号で営んでいるパチンコ遊技場を、その敷地である土地、建物と共に合計金八、一〇〇万円で被告人に譲渡することを約し、同日手付金六〇〇万円が支払われ、同月一三日残代金七、五〇〇万円が支払われて右遊技場の土地、建物を含めたすべてが被告人に引渡されたのであるが、売買契約書は売主が安嶋庄吾、買主が被告人の妻である李舜連名とされ、売買物件も土地、建物と表示されその売買代金も五、六〇〇万円と記載され、それに沿う金銭の領収書が作られたためその差額である二、五〇〇万円はいわゆる裏取引とされていたこと、

(ロ) 右売買の対象となった「三楽ホール」のパチンコ遊技場は、練馬区関町四丁目五六四番の一、二、一三、一四、二〇、二一の五筆の宅地合計八三・八九坪(約二七六・八五平方米)の土地上にあり、二階建木造家屋三棟からなり、これら三棟の建物の延面積は合計一三九・〇四坪であって、内一棟がいわゆるパチンコ台数一五八台を備えた店舗であり、他の二棟は従業員の宿舎兼倉庫として使用されていたものであったこと、

(ハ) 被告人が安嶋から買取った「三楽ホール」はいわゆる居抜きとしての買取りであって、そこにはパチンコ機一五八台、玉貸機三台、玉約四〇万個、玉磨機二台、計算機二台、玉入れ箱約一五〇枚、冷房機一台、暖房機一台、ネオン設備両面、電話一台、ふとん八組、テレビ五台、冷蔵庫一台、机、椅子、ロッカーといったもののほか諸々の什器備品がそのままの状態で引継がれたのであり、そのほか安嶋が雇傭していた「三楽ホール」のマネージャー以下の従業員六人乃至七人もそのまま被告人のもとで引継いて稼動することとされたのであって、そのため被告人は、安嶋から「三楽ホール」を買取った翌日から自己の営業として「三楽ホール」としてのパチンコ営業をそのまま引続いて行い、これを翌昭和四五年七月末までの間約一年二ケ月に亘って営んでいたこと、その間の「三楽ホール」におけるパチンコ玉の売上高の一日平均は一六二、八一五円(昭和四四年中)、乃至一八八、九一八円(昭和四五年中)であったと認められる(符五の金銭出納帳に基づいた算出数値)ところ、通常パチンコ店の営業としては当時一台当り一日一、〇〇〇円の売上げがあるのは成績のよい店であるとされていることから判断するならば、「三楽ホール」がパチンコ店としては営業成績のよい店に属するものであったこと、

といった各事実乃至事情が認められるのである。

(三)  ところが、被告人の右「三楽ホール」の買取りに基づく買取り資産の評価に関し、被告人に対する本件査察事件を担当した東京国税局係官は「売買契約書によると売買物件が土地、建物となっており、被告人に対し建物の価額を聞いたところ、あれはバラックであって当然取壊すというようなことで無価値のものであると述べていたこと」を理由として、被告人と安嶋との「三楽ホール」の買取りというのは、その敷地である土地の価額が八、一〇〇万円であるとして取引されたものと認定していた事情が認められるのである(証人浜田理の当公判廷における供述)ところ、検察官は、被告人が昭和四八年三月一二日付検察官調書において「安嶋から三楽ホールを買った時土地の他に三楽ホールの建物(二階建階下二階共各約四〇坪)とそのそばにあった空家二軒も一緒に買ったのですが、これらの建物はいずれも二〇年以上前に建てたバラックでせいぜい全部で三〇〇万円位の価値しかなく取引の大部分は土地代です」と供述していることを根拠に「三楽ホール」の買取りの実態は土地代七、八〇〇万円、建物代三〇〇万としての取引であったものとしたうえ、その取引額をもって土地、建物の買取時における評価額であると主張するのである。しかし、右(イ)乃至(ハ)の事実からも明らかな如く、被告人が「三楽ホール」を買取ったのは、同人が「三楽ホール」なるパチンコ営業を引続いて行うためであり、現にその店を買取った翌日から一年有余の期間に亘ってパチンコ営業を継続し、その間、相当の利益をあげていたことが推認されるのであるから、被告人の「三楽ホール」の買取りが単なる敷地、土地のみの買取りであったとは認められないし、仮に被告人においてその内心の意図として、将来「三楽ホール」の建物を取り壊したうえ新しい建築物として建て替えて事業を拡大しようと目論んでいたとしても、そのことから、買取対象である資産の客観的価値を無視して買取者である被告人の主観に基づいてそれら買取資産の評価額を決めようとするのは妥当を欠くものといわざるを得ない。

特に本件において、検察官は、被告人の係争年分の実際の所得額の存在の立証方法として、期首と期末における各資産を集計して比較し、その増差額をもって当該年分の所得額であるとする、いわゆる財産増減法による立証を主張しているのであるから当該年分の期中において資産の取得等の変動があったとされる場合にあっては、その取得された資産を客観的基準により償却資産であるか非償却資産であるかに区別したうえ、それら資産を出来る限り客観的価額で評価したところに従い、期首、期末における各資産の価額を決しなければならないというべきである。

(四)  通常の場合、資産の取引における取引価額をもって、その資産の客観的価額と見て差支えない場合が多いであろうが、前記認定の事実から判断するに、被告人が安嶋から「三楽ホール」を買取った取引においては、これが単なる「三楽ホール」の敷地の土地だけの取引でもなく、又その土地と建物のみを対象とした取引でもなく、安嶋が約九年間にわたって「三楽ホール」の屋号で営んで来たハチンコ店営業をその土地、建物と共に什器備品等の一切の設備を含め、そこで稼動する従業員をも含めた現に活動する「三楽ホール」という企業を包括的一体としての譲渡取引であったと認められるのであり、その対価が八、一〇〇万円であったと認められるのであるから、この譲渡取引の対象となるものが貸借対照表上如何なる資産に区別され、如何なる評価額とされるべきかは、単なる譲渡人、譲受人の主観的判断を超えた、出来るだけ客観的基準によって検討されねばならない。

(イ) 「三楽ホール」の土地価額について

証人安嶋庄吾の前記供述によると、同人は「三楽ホール」を被告人に売却する当時、土地の価格として「坪当たりせいぜい四〇乃至五〇万円といったところ」と見積っていたことが認められるし、被告人が三楽ホールを買取る話しがあった当時においてこれが買取価格の目安として相談された相手であり、不動産仲介をなしている証人桜井清の当公判廷における供述によると、同証人は被告人に対し、「三楽ホールと約五〇米の距離の場所において更地の宅地一〇〇坪の売物がありその売り値として坪四〇万円といわれていたことから勘案して三楽ホールを建物設備も含めた居抜きで買い取るとしても坪六〇万円位までとみておけばよいであろう」と述べている事情が認められるところ、当裁判所が職権により鑑定を命じた不動産鑑定士である鑑定人小林秀嘉作成の鑑定評価書によると、安嶋庄吾から被告人に譲渡された「三楽ホール」の敷地である宅地の昭和四四年五月一三日時点における更地として鑑定評価額は四九、三三〇、〇〇〇円であると算出されることが認められ、この評価額を坪単価に直すと一坪当たり約五八七、二六二円となり、この数値は前記安嶋及び桜井が供述するところよりは若干高額ではあるが、さして大差があるものとはいい難いのである。このような諸状況を綜合考慮するとき、被告人が買取った「三楽ホール」の敷地である宅地の前記買取時点においての価額は四九、三三〇、〇〇〇円であったと評価するのが相当であると解する。

(ロ) 「三楽ホール」の建物三棟の価額について

前記の売買契約書(符一五のうちのもの)によると売買物件の対象とされた建物は三棟であって、その延床面積は合計一三九・〇四坪と認められるところ、安嶋と被告人との売買契約時において、これら建物のみについてどのような価額のものとして評価されていたかは明らかでない。ところが被告人は、収税官吏に対する昭和四七年四月一七日付質問てん末書においては「建物は全くのバラックで価値はありません、購入価額五六、〇〇〇、〇〇〇円は土地の価額です」と述べているほか、検察官に対する前記昭和四八年三月一二日付供述調書においては「これらの建物はいずれも二〇年以上前に建てたバラックでせいぜい全部で三〇〇万円位しかない」旨を述べているのであるが、被告人は当公判廷において、それら質問てん末書及び検察官調書における供述記載は当時憤慨していたため、「建物はバラックのようにしておけばいいじゃないかとか、バラックでも三〇〇万円くらいの価値はあるんじゃないか」と述べたことによるものであって、でたらめの供述であり、真実の建物の価値としては約九〇〇万円位ある旨供述している。一方前記安嶋の供述によると、同人は昭和三五年五月に古い建物二棟をこわして延べ約八〇坪の「三楽ホール」の主要建物を作り、その建築費用としては、附属費用は別にして五六一万円であったが、その後昭和三九年九月にこれを改築して一〇二坪の建物とし、この際の改築費用として三二〇万円を出捐していることが認められる。すると、従業員の宿舎兼倉庫として使用していた他の二棟の建物が古い建物であったとしても、「三楽ホール」の建物はその主要建物について見るとき、それ程古いものではなく、むしろ昭和四四年当時においては建築されてから九年目の建物であり、改築されてからでは未だ五年目のもので合計八八一万円の建築費が投入された建造物であったと認められるのに、被告人の前記検察官に対する供述調書において「これら建物はいずれも二〇年以上前に建てたバラックで云々」と述べているのは明らかに事実に反し、建物の価値を殊更に安価にいうための虚勢すら窺えるのであって、その供述調書の記載のうち建物の価値が三〇〇万円であるとの部分をそのまま措信することは出来ないのである。

昭和三〇年代から同四〇年における我が国の経済状況はいわゆる漫性的インフレの状況にあり、物価指数は年々上昇しており、このことは建物についてもその例外ではなかったことは公知の事実といえることに鑑みて判断するに、昭和三五年に建築された建物の昭和四四年時における価値が、その建築時の価値(少なくともその投下建築費)よりも、著しく安価になっていたとも思えないし、他面、「三楽ホール」の三棟の建物の東京都の固定資産税台帳による昭和四四年度の評価額の合計が三、一三七、三〇〇円と記載されている(第二〇回公判期日において取調べた東京都練馬都税事務所長作成の固定資産課税台帳登録証明書三通)のであり、これら課税台帳による評価額が、資産の客観的価格より相当廉価に算出されていることも公知の事実であるともいえるのである点からするならば、三棟の建物の客観的価額は右の評価額を上廻る数額のものであったと推認されるのである。

ところで前記証人安嶋の供述及び被告人の当公判廷における供述によると、「三楽ホール」の売買の全部の取引価格は八、一〇〇万円であったのであるが、「うち二、五〇〇万円については什器備品もあり、権利もあるがこれは別に契約書は書く必要はないじゃないかということで売買契約書(符一五)に記載された売買価額は五、六〇〇万円とされたがこれは土地と建物だけを書いたものであった」という事情が認められる。すると右の五、六〇〇万円が「三楽ホール」の売買における土地、建物のみの取引価額であったということが出来るのであり、そのうち土地のみの価額は前記のとおり四九、三三〇、〇〇〇円であると認められるから建物の価格はその差額六、六七〇、〇〇〇円という計算になるところ、この数値は、安嶋が昭和三五年から同三九年にかけて合計八八一万円を投入して建築、改築した「三楽ホール」の主要建物及びその余の古い二棟の建物についての価額が、年々の使用によりその価値を低めていく反面、インフレ傾向による物価指数の上昇が考えられた昭和四四年五月当時の価額であると考えても格別不自然な数値ではなく、又、この数値は前記固定資産課税台帳に記載の評価額の約二倍強に当たるから、この点からみても格別妥当性を欠くものとも思われないのである。

以上のような諸事情を考察し、被告人が買取った「三楽ホール」の建物三棟の買取時点における価格は六、六七〇、〇〇〇円であったと評価するのが相当であると解する。

(ハ) 「三楽ホール」の什器備品の価額について

前記の証人李道煕の供述によると、被告人が「三楽ホール」を買取ったのはいわゆる居抜きとしての買取りであって、そこにはパチンコ機一五八台をはじめとして玉貸機三台、玉約四〇万個、玉磨機二台、計算機二台、玉入れ箱約一五〇枚、冷房機一台、暖房機一台、ネオン設備両面、電話一台、ふとん八組、テレビ五台、冷蔵庫一台、机、椅子、ロッカーといったもののほかパチンコ営業を行うために必要な一切の什器備品がそのままの状態で引渡されていたというのであって、これらを新たに購入して新規に備え付けるとするならば一、〇〇〇万円を超える価額に及ぶものであることが認められるところ、弁護人はこれらが既に使用中の品物であるから、その半額に当たる五〇〇万円が「三楽ホール」買取時における什器備品の価額と評価されるべきであると主張する。

右の弁護人の主張を否定すべき格別の反証もないから、当裁判所も三楽ホール買取時点における什器備品の価額は五〇〇万円であったと評価するのが相当であると解する。

なお、検察官は、被告人、安嶋らが取引時において右の什器備品を評価の対象外としていたと認められるとし、あたかもこれら什器備品が無価値に等しいものであるかの如く主張するが、そもそも被告人は「三楽ホール」を買取るに当たり、その営業体を全体として総額で八、一〇〇万円として取引していると認められるのであるから、被告人が什器備品の価額を個別に評価していないことはけだし当然のことであって、買取後一年有余にわたってこれら什器備品を使用して営業が継続されていたことに鑑みるとき、これら什器備品の価額が更めて評価されなければならないのである。

(ニ) 営業権について

弁護人は「三楽ホール」の買取りにつき営業権として評価されるべきものがあり、その額は買取り価額八、一〇〇万円のうち裏契約とされた二、五〇〇万円がこれに該るものであると主張するところ、これに対し、検察官は、パチンコ店には場所的利益はあっても、営業権として独立に評価すべき内容は全く存しないという。

所得税法二条一項一九号、同法施行令六条八号によると、所得税法においては「営業権」を無形固定資産の一種として把え、これが減価償却資産であることを明定し、その償却の方法につき同法施行令一二条一項五号は、(A)取得価額の範囲内の金額で任意の時期に償却する方法、(B)取得価額の五分の一宛を均等に償却する方法の二通りの方法を定めて、そのいずれによるかの選択をすることとしているのである。また商法二八五条の七は、暖簾は有償取得、又は合併により取得した場合に限り貸借対照表に資産として計上することができるとし、五年間以内に償却すべき旨を規定している。

ところで、右の如き所得税法にいう「営業権」も商法にいう「暖簾」もその実質的意味内容を別異に解すべき理由はないというべきところ、その貸借対照表能力乃至償却方法から勘案するとき、これら暖簾乃至営業権とは、当該企業の長年の営業活動により創出された特有の名声、信用、得意先、仕入先関係を基礎として生まれる社会的信用、当該企業の保有する特殊製造技術乃至営業上の秘訣、或いはその営業についての許認可乃至は立地条件を含めた独占性、更にはその経営組織等の諸々の要素が有機的に結合されたことにより、他企業を上廻る企業収益を獲得することができる無形の財産的価値を有する事実関係であるというべきである。そして当該企業がその包括的一体として譲渡されたような場合における営業権の価額は、その包括的一体としての譲渡対価の額から個々の資産の合計額を控除した残余の額が、すなわち企業全体の価額が純資産額を超える場合の超過額がこれにあたるものというべきである。

ところで被告人が買取った「三楽ホール」の譲渡は一つの企業の包括的一体としての譲渡として認めうるものであることは先に述べたところであるが、同パチンコ店営業は安嶋が約一〇年近く営業を続けて来ていたものであり、本件の買取当時においても可成り盛況を呈し、非常に成績の良い店であったというのであるから、このことは「三楽ホール」が相当の知名度をもってその顧客と目されるその付近住民に知られており、相当の常連客もあったものとみてよいこと、「三楽ホール」の所在地区には約五〇米離れたところに「三楽ホール」の半分位の規模の「西武」というパチンコ屋が一軒あるのみで、他にパチンコ営業についての競争相手が進出できる余地がないといった立地上及び競業上の好条件が認められるところ、これらはまさしく「三楽ホール」が有する独占性の一面ともいえるうえ、パチンコ営業は風俗営業としていわゆる警察許可の対象となっているが、既存の営業を譲渡されたことによる右警察許可は容易に得られること、既に営業中の「三楽ホール」をそのまま、従業員も従来の状態で買取り、翌日から被告人の営業として従来の屋号である「三楽ホール」の名でパチンコ店を開店したという状況は、通常であれば新規開店に伴う開業準備乃至広告宣伝に要するであろう支出をも必要としないで済んでいること、といった状況が認められるのであるから、右「三楽ホール」の譲渡につき前記の営業権として評価すべき事実関係があるものと認めるのが相当である。このことは「三楽ホール」の譲渡人である前記安嶋がその尋問調書において常に、「三楽ホールは非常にはやって成績の良い店であったが一身上の都合があって売った。営業権が相当ついていると思う」と供述していることとも符合するのである。

そして、営業権の価額は、「三楽ホール」の包括的一体としての譲渡価格八、一〇〇万円から前記の如く土地、建物、什器備品として述べた個々の資産の価額の合計六、一〇〇万円を控除した残余である二、〇〇〇万円であったものと認めるのが相当である。

(五)  以上のとおりであるから、被告人が昭和四四年五月の時点において安嶋から「三楽ホール」を八、一〇〇万円で買取ったことによる資産の評価としては

土地について 四九、三三〇、〇〇〇円

建物について 六、六七〇、〇〇〇円

住器備品について 五、〇〇〇、〇〇〇円

営業権について 二〇、〇〇〇、〇〇〇円

であったと認めるのが相当である。

なお、「三楽ホール」は被告人に買取られたのち、そのままの状態で一年二ケ月に亘って営業が続けられたのち、その建物は、昭和四五年八月に至り取り壊されて鉄筋建築物として建て直されて同年一二月末にはパチンコ店「武蔵関会館」として誕生するのであるが、「三楽ホール」関係の昭和四四年一二月末、同四五年一二月末現在における前記各資産の残存価額をみると

(イ) 土地については何らの変化はない

(ロ) 建物については、昭和四四年において八ケ月間に相当する減価償却が考慮されるべきところ、「三楽ホール」の建物についてこれらを一率に昭和三五年五月に新築された木造住宅用建物であるとすると、既に九年経過したものであるから、所得税法施行令一二五条一号、昭和四〇年大蔵省令(減価償却資産の耐用年数等に関する省令)三条、別表第一、同第一〇によって昭和四四年中の減価償却額を計算すると次式のとおり

〈省略〉

二四八、一二四円となるから、

昭和四四年一二月三一日現在における建物の残存価額は六、四二一、八七六円となり、

昭和四五年一二月三一日現在においては、「三楽ホール」の建物はすべて取壊されたことによりその残存価額としては零となる計算である。

(ハ) 什器備品については、その内容は前記の如く冷暖房機、パチンコ機、その台、玉、その販売機等多種多様のものであって、それらの経過耐用年数を明確にすることが困難であるから、これらを一括して残存耐用年数を五年とみると、昭和四四年中における減価償却額は、次式のとおり

〈省略〉

六〇〇、〇〇〇円となるから

昭和四四年一二月三一日現在における什器備品の残存価額は四、四〇〇、〇〇〇円となり、

昭和四五年一二月三一日現在においては「三楽ホール」の取壊しのためこれら什器備品は廃棄滅失したから残存価額としては零となる計算である。

(ニ)営業権については所得税法施行令一二五条三号により一ケ年についての減価償却額は、次式のとおり、

〈省略〉

四、〇〇〇、〇〇〇円であるから

昭和四四年一二月三一日現在における営業権の残存価額は一六、〇〇〇、〇〇〇円であり、

昭和四五年一二月三一日におけるその残存価額は一二、〇〇〇、〇〇〇円となるというべきである。

なお弁護人は営業権について除却損の発生をも主張しているが、被告人は昭和四五年八月に「三楽ホール」の建物は取り壊したけれども、それは建物を建て替えるためのものであって、同人の同所でのパチンコ営業が廃止されたという趣旨のものではないから、営業権について法定償却方法のほかに除却損が生じたものとするのは相当でない。

三、貸付金について

検察官は、被告人の本件係争年度において貸付金についてはいずれも、その期首と期末において変化がないと主張するところ、弁護人は被告人の昭和四三年一二月三一日現在における貸付金として六、五〇〇、〇〇〇円が存したが、これは昭和四四年中にその返済をうけたから、昭和四四年一二月三一日現在では零となっており、昭和四四年中においてその期首と期末で貸付金として六、五〇〇、〇〇〇円の減少があったと主張する。

(1)  証人林征四郎の当公判廷における供述によると、同人は「予て眤懇の間柄にあった三井商事(株)こと井上久雄から金融仲介を依頼されたため右三井商事振出の手形によって被告人から昭和四〇年中に三〇〇万円を、同四一年中に四〇〇万円の計七〇〇万円を借りてやり、その際同証人が手形を保証する意味で右手形に裏書をしていたが、右三井商事が倒産し前記手形がいずれも不渡となったので同証人が手形保証をした責任から右三井商事所有の不動産を処分し、その処分代金によって昭和四三年五月中に二〇〇万円を、同年八月中に二〇〇万円を、そして昭和四五年四月二五日に残金三〇〇万円を夫々被告人に返済した」としてその返済金の出所及び時期について具体的かつ明確に述べるのであって、この供述と被告人の当公判廷における供述によって、被告人の昭和四三年一二月三一日現在における林征四郎に対する貸付金額は三〇〇万円あったところ、その貸付残額は昭和四四年中に返済されたため同人に対する昭和四四年一二月三一日現在の貸付残額はなくなっていたことが認められる。

なお、林征四郎の検察官に対する供述調書によると、同人は被告人から昭和四〇年ころ二〇〇万円借りたがそれは二〇日位の後に返済し、それ以後被告人から借金していない旨の記載があるほか前記公判廷における供述内容についての記載はないのであるが、林征四郎はその点について、「検察官に対する供述調書では私個人の借入分だと思って申し上げ、三井商事が借りた分は私自身が直接借りたわけではなく、仲介した分であったから申し上げなかった」というのであり、一方被告人は、昭和四八年三月一日付検察官に対する供述調書において、「林征四郎に対しては時々金を貸し、一番多い時は全部で七〇〇万円位の貸金があった時期もあったが四三、四四年ころに全部返して貰った」旨供述して証人林征四郎の公判廷の供述とほぼ符合する供述を既に捜査段階からなしているところ、右調書の約一〇日後である同月一三日付の検察官に対する供述調書ではその返済時期について、「林征四郎から返して貰ったのは昭和四一、二年ころのことである」と訂正されてはいるが、何故に返済年についての記憶が約一年遡及したのかについて全く説明がなされておらず、かつ貸金総額の点についても林との供述のくい違いについて何らの説明もないといった具合であって到底その記載内容をそのまま措信できないから、林征四郎の右の検面調書及び被告人の前記訂正の検面調書の存在によって前記認定が妨げられるものではない。

(2)  証人益田こと李震雨の当公判廷における供述によると、同人は「昭和四一年三月ごろ被告人から住宅資金に当てるため合計七〇〇万円を借りていたが、これの返済は、日の出信用組合石神井支店に住宅を担保に入れて三〇〇万円の融資をうけてこれに手持金五〇万円を加えて同年四月中に三五〇万円を、残額については、昭和四四年八月八日勧業銀行石神井支店に右住宅を担保に入れて九〇〇万円の融資をうけたうちから被告人に対しその頃返済したものである」として、右住宅の登記簿謄本に基づいて融資日時及び返済の経緯を具体的に、且つ明確に述べているのである。ところで同証人の検察官に対する供述調書によっても右公判廷における供述と同じく同人が被告人から七〇〇万円を借りている点を述べているのであるが、その返済時期について昭和四一年後半から四二年にかけてであると述べてその返済日時のみが異なっている。けれども右返済金の出所については「被告人の口ききで石神井の勧業銀行に土地建物を抵当に入れて融資をうけて最初三五〇万円を返しその後残額も返した」というのであって、返済金の財源についても公判廷の供述と若干銀行名についての相違はあるものの、銀行融資の金で返したという点において合致しているところ、返済日の根拠については、検面調書の供述はその日時の確定につき何らの根拠のないまま単に漠然と述べられているのに対し、前記当公判廷の供述では、不動産登録簿謄本に基づいて銀行融資の日時を特定したうえ被告人に対する返済日を明確に述べているのであるから、返済日についての同人の当公判廷の供述には十分の信頼が措けるのに対し、検察官に対する供述調書で述べている返済日時についての供述部分は措信できないことが明らかというべきである。

すると前記証人林震雨の当公判廷における供述によって、被告人の昭和四三年一二月三一日現在における林震雨に対する貸付残額は三五〇万円あったところ、その貸付残額は昭和四四年中に返済され、同人に対する昭和四四年一二月三一日現在の貸付残額はなくなっていたことが認められる。

(3)  以上(1)、(2)で述べた林征四郎及び林震雨に対する貸付金の存在とその返済状況の結果を合算すれば、弁護人の貸付金に関する前記主張は、これをその通り認めることが出来るというべきである。

(法令の適用)

被告人の判示各所為は、いずれも所得税法二三八条一項に該当するが、いずれの罪についても所定刑中懲役刑と罰金刑を併科することとし(罰金刑については、いずれもその免れた所得税の額が五〇〇万円をこえるから、情状により同条二項を適用)、以上は刑法四五条前段の併合罪であるから、懲役刑については同法四七条本文、一〇条により重い判示第二の罪の刑に法定の加重をし、罰金刑については同法四八条二項により判示第一、第二の各罪所定の罰金額を合算し、その刑期及び金額の範囲内で被告人を主文一項の刑に処し、換刑処分につき同法一八条を、情状により懲役刑の執行猶予につき同法二五条一項を、訴訟費用の負担につき刑事訴訟法一八一条一項本文を適用する。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判官 中村勲)

別紙(一) 修正貸借対照表

昭和44年12月31日

〈省略〉

〈省略〉

別紙(二) 修正貸借対照表

昭和45年12月21日

〈省略〉

〈省略〉

別紙(三) 税額計算書

(1) 昭和44年分

〈省略〉

(2) 昭和45年分

〈省略〉

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